自己表現と枠
小学校の頃から国語は苦手だった。
特に感想文、これは嫌で嫌でたまらなかった。
正直言って書くことがない。
しかたがないので、最初から読みながら、
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」
というくだりがあれば、 「トンネルを抜けなくても雪が沢山ある場所はみな雪国」
「その火を飛び越えて来い」
というくだりがあれば、 「熱くてそんなこと現実ではない」
こんな具合に書いた。
良く考えてみると感想を表す語彙はあまりない。
「感動した」
「よかった」
「すごかった」
「面白かった」
だから、感じたことをそのまま書きなさいと言われても一行で終わってしまう。
小学校の頃から20代まではあまり本を読んでいない。
「本には為になることが沢山書いてある。知識を広げることができる。」
「いろいろなことを体験できる。経験できる。(気分だけだが)」
先生はこんな言葉で本を読むことを薦めたが、本を読んでみて少しもそうは思わなかった。
むしろ、そう思わなければいけない、そう感じなければいけないと思うととても苦痛だった。
そう、枠にはめられている感じだ。
30歳を過ぎてから本を沢山読むようになった。
きっかけは楽しめばいいんだと気づいたからだ。
なんでこんな事に気がつくのに30年もかかってしまったのだろうか。
それからは、1冊/週 のペースで読んだ。
この頃は残業もずいぶんしたし、仕事に一番時間を費やした年代だ。
この年代は、縛られることなく、思ったことを好きなようにやっていた時代だった。
最近文章を書くということは自己表現だ、という本を読んだが、そうだと思う。
会社で縛られることなく好きなように仕事をするのも、自己表現だと思う。
感想文が嫌いだった子供が枠を取り払うことでこんなコラムを書いている。
サラリーマンは多少なりとも自己犠牲を強いられ、方針に従わなければいけないところがある。
それが自分の考えと違っていてでもである。それでは面白くない。
これからは制約の無いところで、自分で考え、意思を持って、色々な方法で、思いっきりの自己表現をして生きて行こうと思う。